memento mori

  生きていることが苦しくて自殺を図った人が病院に搬送された。それに対して「まだ死んでない、必死で闘ってる」「死ぬわけないよね、頑張って」とか言う人たちを見た。辛くて解放されたくて死を選んだのに、闘ってるわけがない。彼が選んだのは楽に死ねる方法ではなかったけど、それよりも生きていることの方がずっと苦しかったのだと思う。彼は息を引き取ったらしい。もしも周りの人たちの願い通り、死なずに目を覚ましていたとしたら、彼はどれほど絶望するだろう。それこそ本当に残酷だ。私は自殺を推奨も肯定もしていないし、残された人たちの悲しみを考えればもちろん死ぬべきではないと思う。でも、一般的には大きな恐怖の対象である死の中に自ら逃げ込んだ人たちの今際の際を想像すると、自死を選んだ人に対して「戻ってきて」なんて口が裂けても言えない。私たちにできるのは、大切な人がこの世に絶望しないよう寄り添うことくらいだ。それも簡単ではないのかもしれないけれど。

 

 

  遠くに住んでいる人と急に連絡が取れなくなった。LINEは何日も既読すら付かないし、SNSは何も更新されていなかった。忙しいのかなと思っていたけれど、返信はマメな人だったから数日で心配になった。1週間以上過ぎた頃にふと、死んでしまったのかもしれない、と思った。情緒が不安定になりやすい人なのだ。その人から「死にたい」という言葉は聞いたことがなかった。でもその人はどこか危うい雰囲気を纏っていて、少し変わった言動をする。いつも私はどこかで「この人は生きていたくないんじゃないかな」と感じていた。本当に死んでしまっていてもおかしくないような気がした。何故か、この人が死んでしまっているとしたら死因は自殺だろうと思った。私にはどうすることもできないまま、それなりに長い時間が経ったある時 何事も無かったかのような返信があった。「死んじゃったのかと思った」と送ると「なんで?」と返ってきた後に続けて「死にたくないなあ」と送られてきた。とりあえず無事だったことに安堵したけれど、今でもこの人は死にたくなくても死を選んでしまいそうに思える。

 

 私の大好きな人はネガティブで卑屈だ。彼と話していると、自殺の話になることがある。先に書いたことと矛盾しているけれど、多くの人と同じように私も彼も死にたくなったりするのだ。大好きな人は私に「その時は一緒に飛ぼう」と言った。手を繋いでビルの屋上に立っている所を想像した。服と髪を風になびかせ大きな空と小さな街を背景にして笑う彼を見たら、私はきっと生きたくなってしまうと思う。私の「死にたさ」なんて所詮その程度だ。大好きな人と一緒に死ぬことより、一緒に生きることの方が魅力的に感じる。

 神を信仰していないので、共に生きることは本人に許してもらうだけで良い。