白粉

2019年はそれなりに多くの別れと出会いがあったし、肉体的にも精神的にも忙しかったように思う。

春に大学を卒業して 地元の会社に就職して働き始めた。はじめは 大学の頃のように休日にまで課題や試験のことを考えなくても良いのは気楽だなと思っていたけれど、そのうち休日でも社用携帯は鳴ることや 休み明けの仕事のことを嫌でも考えるようになるってことを知った。

 

 

http://moiraxox.hatenablog.com/entry/2015/08/12/223132

ブログを始めた18歳の頃 こんなことを書いてた。

18歳は少女や乙女を自称してもギリギリ許されたとしても、今となってはちょっと痛々しい。23歳ってもっと年上の人たちからすればまだまだ小娘に過ぎないけど 一応は大人として扱われるわけで、そうなるともう好きなものばかりを選んで居心地の良い場所を自分で作っている余裕なんてないのね。私はまだレポートの文字数やバイトのシフトの話をして、新作のコスメやハンドメイドのアクセサリーを追いかけて、平日に美術館に行ったり お酒を飲んだりする約束をしたいのに。

 

深い赤色の口紅やピンヒールが少しずつ似合うようになってきたり、自分を取り巻く環境が変わったりしても 私が願うことは同じなのに以前より叶いにくくなってしまったかもしれない。これから私はどんどん醜くなる。

そういえば SNSのプロフィールに「ガール」って書いてるんだけど ガールですらないね。レディーかどうかも怪しいなあ。

 

「美と女らしさは年齢と関係がないものだし、作ろうとして作れるものではないと思うの。そして、魅力は、こんなことを言うと、その専門の人たちは困るでしょうけれど、人為的に作りだせるようなものではないと思うの。」

マリリン・モンロー

文学的な身体ー16時の嘆息

 持っている言葉が少ないと それに対応して伝えられる事柄も減る 感じることや思うことが少なくても同じ 語彙や感性が貧しいっていうのは本当に不幸

 

持病というには少し大袈裟だけど私は閃輝暗点という偏頭痛の一種を患っている 頭痛がくる前兆として視界にギザギザした光が現れる その後の激しい頭痛を回避する術はないので光が見えた瞬間に絶望する   芥川龍之介閃輝暗点に悩んでいたらしくて 遺作の『歯車』にもその様子が書かれている 自殺の原因であるという推測もあるくらいだ 偉大な文豪と同じ悩みを抱えているということで少しだけ閃輝暗点に対する恨みが減る気がする でも確かにあの光を見た後の頭痛の最中では「殺してくれ」と思う 初めて閃輝暗点の発作が出た時に私は「なんか視界がチカチカしてる」と思ったのに 芥川は「たえず回転する半透明の歯車」と表現している こんなところにまで感性の差が出るんだなと悲しくなった

 

 夕方の感傷にも似た何かを表す言葉を私は知らない 文学部出身の性なのかどうにか言葉で説明しようとしてしまうけれど 何でも既存の表現に当てはめる必要ってもしかしたら無いのかもしれない  

 

そうそう お金で買えないものがあること 最近知ったんだよ

 

鋭い西日に目を細めた直後

太陽の残像が 閃輝暗点に似ていて背筋が寒くなった

 

 

 

 

退廃的な心ー25時の嗚咽

  気まぐれでやってみたネットにある鬱病チェッカーに中度〜重度の鬱病とか診断されたりした 私が鬱?そんなわけないじゃん こうして嫌々ながらも毎日仕事に行ってるし ちょっと辛くなることくらい誰にでもあるでしょ 中学の頃  友達の付き添いで保健室に行った時に自分も何となく体温を測ってみたら38度を超えていて自宅に強制送還されたことを思い出した 結局インフルエンザにかかっていたことが分かり 病院に到着した瞬間から体調が悪くなって数日寝込む羽目になった

私は精神病は甘えだと思ってるタイプの人間だったんだけどな 「頭痛持ち」という人種に対してもそう思ってた いざ自分が偏頭痛に悩まされるようになるまでは  ネットの診断結果に「君は鬱病だから早く病院に行って」 と言われてちょっと不安になっちゃった 私は絶対に病院なんか行かないよ ほら 明日も人と会う予定があるし

 

 

最近の私がいつにも増してメソメソしているのは別に恋人とお別れしたことが原因じゃない むしろ少しもショックを受けていない自分に嫌気がさす

 

頭は悪いし 性格も要領も悪いし 体調も悪い

私のことを「男をダメにする女」と称した男性たちは みんな最初からダメな人だったし 「いい女」だと言ってくれた人たちのせいで私はダメになった 私にダメな男にされたって言ってくる人たちに対して私は責任を持って一緒にダメになってあげたのに いい女だったはずの私をダメにした人たちは私を放置してどこか行っちゃうんだよ 酷い話だよね 私は1人でずっとダメなまま 

 


煙草の香り  朝の光  頬に落ちる睫毛の影 貴方はこちらを向いているけどその瞳には何も映っていない

深夜 息苦しくなるのは きっと心が不健康だから

 

 

 

 

邯鄲の夢

 私は別に物書きでも何でもないから誰かの目を意識して言葉を紡ぐ必要はないのに、この文章は私の端末から飛び出して全世界で閲覧可能なわけで、そう思うとどうしても出来事や思考を無駄に飾り立てようとしてしまう。誰も見ていないに等しいけれど。

 

 伝えたいことがあるはずなのに自分ですらそれが何なのか分からなくて、作文の宿題でいかに文字数を稼ぐかを考えていた頃を思い出す。書きたいものが分からない癖に「書かなきゃ!」っていう謎の衝動だけがあって、深夜も1時を過ぎているのにまだ布団に入れないような気になる。

 

 どう足掻いても私に関心を持ってくれない人がいた。その人に強烈で鮮明な印象に残したくて、そうすることで呪いたくて、目の前で首を掻き切ろうとか通話しながら飛び降りようとか考えていたことがある。恐怖でも怒りでも何でも良いから気持ちを揺さぶりたくて、そのためには死ぬしかないと思った。こんなことを考えておきながら、私はのうのうと生きている。死ぬのは怖い。死ぬことでしか人の視界に入れないのも、気を引く方法をそれしか思い付かないのも無様で惨めで滑稽だ。もしかすると、私が死んでもちょっと眼球を動かすだけで身体をこちらに向けることすらしないかもしれない。そうなってくるとより一層間抜けだ。

 

 私は自分の容姿に執着しすぎている。整形したいなと思う。でもその前にまだ自力で改善できるところがあるはず、と肌や髪のケアに躍起になっている。お金も時間もたくさん消費している。できれば気にしないで過ごしたい。でも気になってしまったら何もしないでいることなんかできない。ほんの僅かでも綺麗になろうと足掻くことを私はきっと一生やめられないだろうな。化け物みたいなお婆さんになるかも。いっそのこと取り返しが付かなくなるくらい私の顔が壊れてしまえば良いのにと思ったりもする。熱した油で洗顔でもしてみようか。外見ばかり気にして化粧品を塗り込む私はとても醜い。

 

 「愛されたい」「幸せになりたい」っていう言葉が嫌いだったはずなのに、最近そればかり考えてしまう。私にとっての幸せは家庭を築くことでも仕事で成功することでもないし、そもそも幸せを望むつもりはなかった。ふとした時にそう思うということはきっと本心なんだろうな。幸せって?

 

「頭のいい女の子は、キスはするけど愛さない。耳を傾けるけど信じない。そして捨てられる前に捨てる。」

マリリン・モンロー

don'nt U θink?

 予定がたくさん詰まっていると時間は早く過ぎる。楽しみなことでも嫌なことでも良い。忙しくしていた方が日々は充実する。忙しくしていればどこかで待っている嫌なことを考える暇もなく、それも気付いたら終わっていたりする。

楽しみな予定を待ち遠しく思っているのは良い。楽しみにしていたことが終わるのは悲しい。それなら、永遠にこないその日を待ち焦がれていたいような気がしてくる。『火の鳥』の未来編を思い出した。人類が滅亡した地球でたった一人で途方もない時間を過ごす不死身の男の話。上手く簡潔に説明できないので内容は割愛する。要するに彼はたった一つの生きる楽しみを奪われてしまったってことです。

 

終わったからといって生きる希望を失うような壮大な予定はないけれど、なんとなく無気力になることはあるでしょ?

終わってしまうなら次の予定を入れれば良い。それを楽しみにさせ続けてくれるなら実現しなくても構わない。思い出を残そうと写真を撮りたくなってしまうけれど、次があるならそれもいらないのかも。「写真になっちゃえばあたしが古くなるじゃない」って椎名林檎も言ってるし。写真より記憶で残したい。五感に刻みたい。でもやっぱり写真は見返したくなるし、iPhoneのカメラロールのデータが飛んだら発狂すると思う。

口約束で良い。それだけで私は結構どんなことでも頑張れてしまうから。

 

 

最後の夏 あるいは 都会の香りその2

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平成30年。世の中は「平成最後の○○」で溢れている。小説のフレーズのような「平成最後の夏」は既に使い古されているけれど、やっぱりどこか胸がざわつくような感覚を覚える。

私は今年度で大学を卒業できるはずなので、学生生活も最後になる。今は学生生活最後の夏休み。就活を終え、課題のレポートを提出したら適度にバイトをしつつ好きなことをするだけ。

 

久しぶりに東京に行った。3年ぶりに会った人の爪はもう深く艶やかな青ではなかった。私が真似してあけたインダストリアルもつけていなかった。私も1年以上つけていないので、とっくにお揃いではなかったのだけれど。甘い香りだけは同じだった。でもそれは電子タバコではなくて、シーシャになっていた。何で東京にいる知り合いはみんなシーシャが好きなんだろう。

 

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「お前は変わったね」

貴方も変わったよ

「もう会わないと思ってた」

私は忘れられてると思ってたよ

「忘れないよ」

あの頃、本当に私のこと好きだった?

「んー、普通に好きって感じ」

まあその程度だよね

「お前は?」

人生捧げても良いと思ってたよ

「今は?」

別にもう一生会わなくても良い

「俺は東京で就職するの待ってたよ」

私は他に人生捧げたい人ができたよ

「お前すぐ他人に人生捧げるよね」

誰かのためじゃなきゃ生きられない

「そこは変わってないね」

貴方は匂いが変わってないよ

「何それ気持ち悪い」

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 別に一生会わなくても良いけれど、きっと東京に来るたびに会うと思う。そしてたいして内容のない会話をしてすぐ別れるのだ。普段の生活の中でお互いのことを考えたりはしない。時々ふと、思い出すだけ。

 

 

 私にとって夏はセンチメンタルな季節なので、夏の曲は元気で明るいものより切ない雰囲気のものが好きだ。1番好きな夏の曲は「夏をあきらめて」。この曲には確かに暑くて眩しい夏が描かれているのに、哀愁に溢れている。私のイメージする夏そのもの。あと童謡というかこども向けなんだけど、「ぼくとイルカの夏」という曲も良い。歌詞は明るい雰囲気で、メロディーにはどこか切なさを感じる。夏の哀愁は小学生の頃から感じていた。夏の夕方に自宅の庭で何故か急に寂しくなって泣いたことを思い出す。小学校の2年か3年の時だった。それ以上の詳しいことは何も思い出せない。当時の私には分からなかったけれど、今の私と同じ感覚をあの頃も味わっていたんじゃないかなと思う。

 

 

夕方の感傷も、 真夜中の息苦しさも、フラッシュバックするトラウマも、心臓を抉る言葉も、それすらも全部愛おしいと思える。なんでってそりゃあ、最後の夏だからね。

memento mori

  生きていることが苦しくて自殺を図った人が病院に搬送された。それに対して「まだ死んでない、必死で闘ってる」「死ぬわけないよね、頑張って」とか言う人たちを見た。辛くて解放されたくて死を選んだのに、闘ってるわけがない。彼が選んだのは楽に死ねる方法ではなかったけど、それよりも生きていることの方がずっと苦しかったのだと思う。彼は息を引き取ったらしい。もしも周りの人たちの願い通り、死なずに目を覚ましていたとしたら、彼はどれほど絶望するだろう。それこそ本当に残酷だ。私は自殺を推奨も肯定もしていないし、残された人たちの悲しみを考えればもちろん死ぬべきではないと思う。でも、一般的には大きな恐怖の対象である死の中に自ら逃げ込んだ人たちの今際の際を想像すると、自死を選んだ人に対して「戻ってきて」なんて口が裂けても言えない。私たちにできるのは、大切な人がこの世に絶望しないよう寄り添うことくらいだ。それも簡単ではないのかもしれないけれど。

 

 

  遠くに住んでいる人と急に連絡が取れなくなった。LINEは何日も既読すら付かないし、SNSは何も更新されていなかった。忙しいのかなと思っていたけれど、返信はマメな人だったから数日で心配になった。1週間以上過ぎた頃にふと、死んでしまったのかもしれない、と思った。情緒が不安定になりやすい人なのだ。その人から「死にたい」という言葉は聞いたことがなかった。でもその人はどこか危うい雰囲気を纏っていて、少し変わった言動をする。いつも私はどこかで「この人は生きていたくないんじゃないかな」と感じていた。本当に死んでしまっていてもおかしくないような気がした。何故か、この人が死んでしまっているとしたら死因は自殺だろうと思った。私にはどうすることもできないまま、それなりに長い時間が経ったある時 何事も無かったかのような返信があった。「死んじゃったのかと思った」と送ると「なんで?」と返ってきた後に続けて「死にたくないなあ」と送られてきた。とりあえず無事だったことに安堵したけれど、今でもこの人は死にたくなくても死を選んでしまいそうに思える。

 

 私の大好きな人はネガティブで卑屈だ。彼と話していると、自殺の話になることがある。先に書いたことと矛盾しているけれど、多くの人と同じように私も彼も死にたくなったりするのだ。大好きな人は私に「その時は一緒に飛ぼう」と言った。手を繋いでビルの屋上に立っている所を想像した。服と髪を風になびかせ大きな空と小さな街を背景にして笑う彼を見たら、私はきっと生きたくなってしまうと思う。私の「死にたさ」なんて所詮その程度だ。大好きな人と一緒に死ぬことより、一緒に生きることの方が魅力的に感じる。

 神を信仰していないので、共に生きることは本人に許してもらうだけで良い。